2020年10月25日礼拝

なくならない食べ物のために   ヨハネの福音書6章25~35節

・イエスの五千人の食事の奇跡の後、大勢の群衆がイエスを追いかけてきました。この人について行けば、もう食べることに困ることはないと思ったからです。けれどもイエスはいわれました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(27)もちろん、日々の必要のために働くことはとても大切なことです。けれども、それは私たちの最終的な目的ではありません。私たちはイエスに何を求めているでしょうか。もちろん、日々の必要のこと、仕事や勉強のこと、何でも求めてよいのです。けれどもこれらのことはイエスがこの世にこられた本当の目的ではありません。イエスは、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」といわれました。それではどうすればよいのだろうか。人々はイエスに尋ねます。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」(28)聖書の中のきまりを守ることか、もっとまじめに生きればよいのか。イエスは言われます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29)なくならない食べ物のために必要なことは、イエスを信じることです。

 

 

・肝心なことはイエスをどのような方として信じるかです。人々はイエスのことをモーセのような預言者だと思っていたようです。だからイエスに「何をしてくださいますか」(30)とさらなるしるしを求めます。モーセの時代の荒野のマナのような奇跡が起こるならば信じられる…彼らが考えていたのは<なくなる食べ物>のことだけでした。イエスは言われます。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(35)いつまでもなくならない、永遠のいのちに至るいのちのパンはイエスです。私たちは永遠のいのちに至るパンであるイエスが必要だからここに集められたのです。何のために生きているのかわからない、生きていくことに疲れてしまった、すべてがむなしい、だれもわたしのことなんてわかってくれない、もっとたしかな何かがほしい。私たちの中にはそのようなのたましいの飢え渇きがあります。すべてイエスによって満たされれます。すべての人は神に背を向けることによって永遠のいのちから離れ、いつかはなくなるものだけを求めるようになりました。イエスは神から離れてしまった私たちをもう一度神のものとするために十字架で死なれ、私たちにいつまでもなくならない永遠のいのちを与えるために、死からよみがえられた。イエスを信じるとは、イエスをわたしのために十字架で死なれ、よみがえってくださった神の子として信じるということです。どんなに長生きしても、地上のいのちはいつかは終わります。でも永遠のいのちがあるなら、死は終わりではありません。永遠のいのちとは神とともに生きることです。十字架で死なれ、死からよみがえられたイエスを信じるなら、神とともに生きる永遠のいのちは、今もう私たちの中にあります。イエスに信頼してともに歩むなら、日々の小さな営みさえも、イエスは永遠に価値をもつ歩みへと変えてくださるのです。