2020年3月29日礼拝

 永遠のいのちへの招き 

ヨハネの福音書8章48~59節

 ・イエスが十字架で死ななければならないほど重い私たちの罪とは、神を認めず自分を神とすることです。「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」(53ユダヤ人指導者たちはどうにかしてイエスを訴える理由を見つけ、イエスを殺そうとしています。彼らはイエスがなさった数々の奇跡をみても、イエスが語られることばを聞いても理解できず、イエスのことばとわざを悪霊の力によるものだと決めつけました。生まれながらの人間にとっては、自分とこの世の流れがすべての基準です。神抜きの基準です。それはアダムとエバ以来の、神に背を向けた人間の姿です。ユダヤ人指導者たちは、聖書のことはわかっている、自分は神を知っていると思っています。けれども、それは古い心のままの理解でした。彼らは神のみことばよりも、自分たちがもっているもの、目に見えるもの、自分たちの血筋や伝統や身分、知識を誇る生き方から一歩も外へででようとせず、古い自分から変わろうとはしませんでした。ユダヤ人指導者たちの姿は、神を認めず、自分を神とする私たちの姿でもあります。

 

・イエスは天の父を知り、天の父に従われた神のひとり子です。「イエスは答えられた。『わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。」(49主イエスは自分の栄光を求めず、自分で自分を弁護せず、辱められてもやり返しません。それはこの方が天の父に愛されている神のひとり子だからです。愛する天の父が栄光を与え、弁護してくださるからです。イエスが天の父から栄光をお受けになるのは十字架に架かられたときです。私たちはユダヤ人指導者たちのように、神を認めず、みことばに聞き従わず、自分の栄光を求め、自分を神とする者でした。にもかかわらず、天の父は私たちを愛し、救おうとなさいました。イエスは天の父に十字架の死にまで従われました。

 

 

 ・イエスは私たちを永遠のいのちに招いておられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51神を認めず自分を神とする生き方の先にあるのは、永遠に神から引き離される霊的な死です。肉体の死はすべての人に訪れますが、イエスが語られたみことばを信じ、イエスを信頼して従うなら、肉体の死はすべての終わりではありません。イエスを信頼して従うなら、永遠のいのちはもう私たちの中にあります。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(58アブラハムが生まれる前から、イエスは神ご自身であるということです。「わたしはある」は神の名前です。神は旧約のイスラエルの民にご自身を「わたしはある」という名で示されました。世界の造られる前からおられる永遠の神が、この地上に人として来られ、死ぬことのない神が、私たちに代わって死に、死からよみがえられました。永遠のいのちは、イエスに聞き従うところにあるのです。