2023年1月15日礼拝

教会に生きる幸い   ヨハネの福音書20章24~29節

主イエスの十二弟子の一人であるトマスという人は、よく教会では「疑いのトマス」といわれます。しかし、他のトマスの言動が記された聖書の箇所を読んでみますと、すぐにトマスの違った側面が浮かび上がってきます。ヨハネの福音書11章には、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と意気揚々と宣言するトマスの姿が記されています。また、ヨハネの福音書14章には、「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われた主イエスのお言葉に対して、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたらその道を知ることができるのでしょうか」と、非常に正直に、率直に答えるトマスのことばが記されています。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25)というこのトマスの宣言は、彼の疑いの心を示していますけれども、同時に彼の正直さをも表しているといえるでしょう。「主と一緒に死のうではないか」というほどに主イエスを愛していたトマスは、きっと誰よりも主イエスのよみがえりを信じたかったのでしょう。しかし、トマスは信じられなかった。私たちはときに、本当に心の底から信じたいと思うことほど、そう素直には信じられない、ということがあります。しかしトマスは、そういう疑いの心に蓋をして、あたかも信じているかのように信仰者の顔をしてごまかすことをしませんでした。 実際、トマスが信じることができなかったのは、無理もないことだったといえます。というのも、主イエスの弟子たちの中で、「主イエスが復活した」と聞いただけでよみがえりを信じた弟子は実はひとりもいませんでした。弟子たちはみな、よみがえられた主イエスに出会ってはじめて、まことの信仰を得ることができたわけです。信仰というのは、特別に純粋無垢な人がもつことができるものではありません。信じる対象であるイエス・キリストが、まことに真実な神だからこそ、どんなに疑い深い心の中にも、信仰は生まれるのです。私たちは、この主イエスとの出会いなしに、主イエスを信じるということはできません。

 

では、どうやって主イエスに出会うのか。主イエスは信仰を得たトマスに言いました。「あなたは見たから信じたのか。見ずに信じるものは幸いです」(29)。これは、「あなたは見て信じたのか」と問い詰めて「それではいけない」と叱っているのではなく、「あなたは見て信じた。それはそれでよい。けれども、これからのちは見ずに信じる者たちが現れる。そういう信仰に生きる人々は幸いだ」という、そんな意味の主イエスのお言葉です。この「見ずに信じる人たち」それは、教会に生きる私たちのことです。ペテロの手紙第一の18節「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」主イエスがトマスに「見ずに信じる人は幸いです」といわれたとき、主イエスが思い描いていられたのは、このような教会の姿でした。そしてそれは、今ここに集っている、私たちの姿なのです。私たちは主日ごとに礼拝を通して、主イエ

スに出会うのです。私たちは主イエスを直接見たことはないけれども、この方を信じ礼拝する

 

のです。ここに教会に生きる幸いがあります。