2022年3月27日礼拝

私は罪の赦しを信じます        コリント人への手紙第二5章19~21節

神との和解 使徒信条は「私は罪の赦しを信じます」と言い表します。罪は神を神と認めず、自分と自分の住む世界を神とすることです。私にも、私が関わるすべての人にもにも罪があります。罪の根っこにあるのは神と私たちとの関係です。最初の人間であるアダムとエバが神に背いたときからすべての人には神に背き、神を忘れ神に背を向け自分が神であるかのように生きる罪があります。罪は私たちの生き方全体に影響します。そして私たちは自分自身の罪と罪深い生き方に対して責任があります。「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(19)罪によって、神と私たち人間との関係は壊れてしまいました。小さなことであれば謝罪によって和解することはできます。けれども神と人との関係が壊れてしまったことは小さなことではありません。だから旧約の時代には、人の罪が赦されるためには動物のいのちがささげられました。神の罪の赦しのご計画は預言者によって語られ、イエス・キリストによって完全に実現しました。イエス・キリストは罪を知らない方です。にもかかわらず、イエス・キリストは私が受けるべき罪の責任をすべて背負ってくださいました。神の側から壊れていた関係を元通りにしてくださった私が人より何かよいことをしたからではなく、ただ神の恵みです。「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。」(20)パウロ自身がイエスによって神と和解した人でした。パウロは神と和解して、イエスを憎む人から、イエスを伝える人になりました。「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(20)パウロがそうであったように、私たちに必要なことは、和解を受け入れること、つまりイエスが私たちの身代わりに十字架で死なれ、死からよみがえられた救い主だと信じることです。その時私は十字架で死なれ、死からよみがえられたイエス・キリストと一つになります。

 

 

神の義が私のうちに イエスは私の罪を背負ってくださいました。しかもそれだけではありません。イエスはご自身だけがもっているすばらしいものを私たちにくださったのです。それは「神の義」です。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(21) 私たちは罪によって神との正しい関係を失いました。けれどもイエスを信じること通して、私たちは十字架にかかりよみがえられたイエスと結ばれました。私の罪をイエスが背負われ、反対にイエスのうちにある「神の義」が私に注がれたのです。なぜそのようなことが起こり得るのでしょうか。ただ神の恵みです。罪赦されたとは、神との正しい関係に戻ることができたということです。、イエス・キリストによって罪赦された人は神の子どもです。正しい方、きよい方であるイエス・キリストが私たちの罪を背負って死なれました。そして死からよみがえり、神との正しい関係に私たちを導いてくださったのです。罪の赦しは神の深い愛です。罪の赦しを信じる人は神の愛の中で生きていく人です。神に愛されている人、罪赦された人として、私たちは神を礼拝します。神とともに日々を歩みます。そして私たちも愛する人、赦す人、イエスのすばらしさを伝える人へと変えられていくのです。