2022年4月3日礼拝

家は香油の香りでいっぱいに     ヨハネの福音書 12章1~8節
イエスが愛を注がれたから 今朝の聖書で語られるのは、イエスがエルサレムに入る二日前の出来事です。エルサレムの近くのベタニアという町に、イエスが愛したマルタ、マリア、ラザロという3人のきょうだいが住んでいました。エルサレムに入られる前にもう一度ベタニアを訪れたイエスを、村の人々は歓迎します。人々がイエスを迎える中で、マリアがしたことは普通では考えられないようなことでした。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」3)マリアがイエスの足に注いだ香油(300)は、当時の約300日分の賃金に相当するものでした。なぜマリアはそれほど高価な香油をイエスの足に注いだのでしょうか。イエスがまずマリアと家族に愛を注いでくださったからです。ラザロが病気で死んだとき、マリアは泣いていました。イエスも涙を流されました。深い悲しみが家族をおおいました。けれども悲しみは喜びに変わります。主イエスがラザロをよみがえせてくださったからです。

 

心の中に何があるか イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダが、マリアのしたことを非難します。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5)ユダは一見するとまともなこと、正しいことを語っているように見えます。けれどもユダの心の中にあったのは貪欲でした。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6)そしてその貪欲により、ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡すことになるのです。問われているのは行い以前に、私たちの心の中に何があるかです。よい行い以前に、それははたしてよい動機から出ているのかが問われています。香油をイエスに注いだマリアの心の中にあったのは、イエスが注がれた深い愛に対するあふれるほどの感謝と喜びでした。

 

感謝と喜びを主に 「イエスは言われた。『そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。』」(7-8イエスは貧しい人への施しを軽んじておられるのではありません。イエスの地上で残された時はあとわずかであることを語っておられるのです。そんな中、マリアが主にささげた心を主イエスは喜ばれました。「香り」(3)が他の聖書箇所で表しているのはささげること、献身です(ピリピ4:18、Ⅱコリント2:5)。イエスがマリアとマリアの家族に大きな愛を注いでくださった。イエスの惜しみない愛への感謝と喜びを高価な香油の油注ぎとしてマリアはささげたのです。私たちが主の愛を知ったのは、イエスが「芳ばしい香り」としてご自身のいのちをささげてくださったからです(エペソ52)。私たちも主を礼拝することによって、主へのささげものによって、主を証しすることを通して、私を愛してくださる主に喜びと感謝をささげるのです。