2020年5月24日礼拝

 全能の神         

創世記17章1~8節

無力さを通して ・「さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。『わたしは全能の神である。』」(1)聖書の中で神が最初に「全能の神」として現れてくださった人は99歳のアブラムでした。神はアブラムを「大いなる国民」とすると約束されましたが、アブラムと妻サライにはひとりの子どももいいません。子孫に関しては彼らにできることは何もありません。神がアブラムに全能の神としてご自身を示されたのはそんなときでした。私たちは自分が無力であることは、認めたくないものです。けれども、私たちが全能の神を知るのは無力さを通してです。マリアは救い主イエスの母となるために神から呼ばれました。救い主がマリアから生まれるために、結婚前のマリアができることはなにもありませんでした。すると天使はマリアに言いました。「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37)マリアもこのとき無力な中で全能の神に出会ったのです。自分に何かできると思っているときには全能の神は見えません。私たちは無力である経験の中で全能の神を知ります。

 

全能の神が私の神に ・「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」(7)神が契約を結んでくださるとは、神から特別に愛されて祝福を受けるということです。神の愛は、一時的なものではなくて、永遠の契約です。全能の神が、あなたのことを特別に愛すると約束してくださる。まずアブラムが選ばれました。それはアブラムと彼の子孫を通して、世界の人々が神の愛を知り、神の祝福を受けるためです。 ・私たちの中には、神を忘れ神から離れていこうとする罪があります。それでも、神はあきらめません。神の全能は、神が罪ある私をそれでも愛してくださることのうちに表れています。「あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(5)「アブラム」は「高められた父」、「アブラハム」は「多くの人の父」という意味です。アブラハムは神に愛されている人として、全能の神が望まれたように生きるようになります。クリスチャンになるとは、神に特別に愛されている人として神が望まれるように生きていくということです。

 

 

全能の神だけに信頼する ・「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1)アブラハムは普通の人間です。完全な方、完璧な方は神おひとりです。アブラハムにできることは全能の神に信頼すること、そして神に従って、神が示される道を歩いていくことだけです。「全き者」とは神との間に余計なものがないということです。私たちは神のまえにいろんな余計なものを置こうとします。そして全能の神が見えなくなり、全能の神に信頼することを忘れてしまいます。神との間にあるよけいなもの、それが罪です。イエス・キリストは十字架の死によって私たちの罪をその身に負われました。私を赦すために、神にしかできないことをしてくださったのです。神が全能であるとは、神が私を特別に愛してくださるということです。私たちにできることは、私を特別に愛してくださる全能の神だけに信頼して歩んでいくということなのです。