2021年3月7日礼拝

 主は信頼できる方だから   詩篇125篇

旧約のイスラエルの民が歩んだ時代も、私たちが生きる現代も大きく揺れ動いている時代です。そのような中で、なぜ主に信頼する人々は「揺るぐこと」がないのでしょうか。

 悪の力から守られる主 「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。/揺るぐことなく とこしえにながらえる。/エルサレムを山々が取り囲んでいるように/主は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる。」(1-2)山々に取り囲まれたエルサレムのように、主に信頼する人は、主によって取り囲まれ、主によって悪の力から守られます。「それは 悪の杖が/正しい人の割り当て地の上にとどまることがなく/正しい人が不正なことに/手を伸ばさないようにするためだ。」(3) 悪の杖は諸国の王による支配を意味します。歴史の中ではエルサレムは何度も強国の攻撃にさらされることがありました。それは霊的な攻撃でもあり、誘惑でもありました。神々を拝む国々の方が栄えているように見えるからです。現代でも、試練と誘惑はあります。ある国では教会に対する迫害、教会の中に間違った教えが入り込んでくること。また目に見える迫害はなくても、使命を見失い、少しずつ神との関係が弱くなっていくこと。働いているのは同じ悪の力です。揺り動かされるようなとき、私たちにとって一番大切なことは神との関係です。主に信頼する人を、主はどんなときも悪の力から守り、神から離れず神とともに歩むことができるように支えてくださいます。主は信頼できる方です。だから主に信頼する人は「揺るぐこと」がないのです。

 

祈りに応えてくださる主 主に信頼してより頼むことと、別の何かにより頼むこととはより頼む動機が違います。神ではない別の何かにより頼むとき、動機となるのは不安です。とにかく不安が消えるなら、不安を解消してくれるものなら何でもよい、そういう頼り方があります。別の何かに頼るとき必要なことは私が何かをすることです。この世の力、お金や財産、地位や名誉、薬物、人への不健全な依存、それらは頼るものを失わないために何かをし続けなければいけません。けれども神に信頼してよりたのむことはそうではありません。なぜどんなときもただ主にのみより頼むのか。不安なときも、そうでないときも、主は信頼できる方だからです。現実には、神から離れているからすべてがうまくいかなくなるわけではなく、神に信頼して歩んでいてもうまくいかないことはありません。ここに苦しみがあります。だから祈るのです。「主よ 善良な人々や心の直ぐな人々に/ いつくしみを施してください。/主は 曲がった道にそれる者どもを/不法を行う者どもとともに追い出される。/イスラエルの上に平和があるように。」(4-5)神は祈りに応えてくださると知っているからです。たとえば、祈りのノートをつけることは、神が祈りに応えてくださることを知る助けとなります。主は私たちを悪の力から守る方、私たちの祈りに応えてくださる方です。主は十字架と復活によって悪の力に勝利され、今も私たちのためにとりなしていてくださいます。どんなときも主に信頼して祈りながら歩んでいきましょう。主は信頼できる方だからです。