2020年12月6日礼拝

キリストの平和      イザヤ書2章1~5節

隔ての壁を越えて ・いつの世もこの世界は平和を求めています。けれども多くの人がこの世界は平和ではないと感じています。平和のために何もできない無力感があります。けれども、神は終わりの日に平和が訪れることを約束してくださっています。それはキリストの平和です。「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。」2イザヤが見たのは、高くそびえる主の山エルサレムに、世界中から大勢の人々が集まってくる姿でした。エルサレムの神殿はユダヤ人の礼拝の場所です。エルサレム神殿の中まで入ることができたのはユダヤ人だけだでした。異邦人は神の救いの枠の外にいると思われていたからです。イザヤが幻のうちに見たのは世界中から、肌の色も人種も国籍もことばも文化も違うすべての民がエルサレムの神殿に上ってくる姿です。これは世界の民が中東エルサレムに集まるという意味ではなく、すべての人がイエス・キリストを通して神に近づくことができるようになるということです。なぜなら主の山エルサレムこそ、すべての人のためにイエスが十字架にかかり、よみがえられた場所だからです。イエスの十字架と復活によって、神に近づく道が、ユダヤ人だけではなくすべての人に開かれました。ユダヤ人と異邦人との間にあった隔ての壁を、キリストが十字架によって取り除いてくださったからです(エペソ2:14-16)。キリストが隔ての壁が取り除かれたからこそ、すべての民がキリストによって一つとされることができる。これが主が私たちに与えてくださった平和です。

 

 

関係の回復 ・「多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。」3私たちは神に背を向け、この世の流れと欲望に従って生きる道を歩んでいました。これに対し、イエスが十字架と復活によって示された「主の道」は私たち人間が生きるべき本来の道です。私から自由を奪う道ではなく、私がもっとも生き生きと私が私らしく生きる道です。「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。」4主がさばきを行われるということは、神が王としてこの世界を治められるということです。神の王としてのご支配は今まだ完全には実現していません。人間の罪が、神のご支配が世界の隅々にまで実現することを妨げているからです。すべての人は神に背き、自分を神とする罪によって神との平和を失った。イエスは十字架の血によって私たちとこの世界を神と和解させてくださいましたコロサイ1:19-20)「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」4これは争いの絶えない日々が終わり、戦争で荒れ果てた地が回復する約束です。悩み傷ついたこの世界に回復が訪れるのはいつのことでしょうか。けれども神はすでに私たちの中に回復の道筋を示しておられます。「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」5この世界の回復はまず、神と私たちひとりひとりとの関係の回復から始まります。隔ての壁を打ち破り、十字架の血によって神と和解させてくださるキリストの愛に立ち戻り、主とともに歩むこと、そこから世界の回復への道は始まるのです。